自身の経験からの体感にもなりますが、構造設計者は意識として計算が先にきてしまうため、正確な法文の理解が不足しがちです。
設計者として、業務の絶対的な判断基準となるのが「建築基準法」です。この法律を満足させなければ、そもそも建物を建てることは許可されません。したがって、法を遵守することは、設計の大前提です。
クライアント(施主)から「この建物は、どのくらいの地震まで大丈夫なのですか?」と問われたとき、私たちは「計算上、問題ありません」といった言葉で終わらせるのではなく、その性能の本当の意味を明確に、そして誠実に説明する責任があります。
この記事では、建築基準法が定める耐震性能の「本当の意味」を深掘りします。そして、法律が定める「最低限の基準」を正しく理解した上で、私たち構造設計者がクライアントの真のニーズに応え、付加価値の高い提案をするために何を考えるべきか、その道筋を解説します。
① 建築基準法が定める「最低限の耐震性」とは何か?
法律の条文から読み解く「最低の基準」
建築基準法の第一条には、この法律の目的が次のように記されています。
第一条 この法律は、建築物の敷地、構造、設備及び用途に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。
ここで重要なのは「最低の基準」と「生命、健康及び財産の保護」という2つのキーワードです。構造設計における「最低の基準」とは、この目的を達成するための具体的な性能目標を指します。
一般的に、構造設計の世界では、この条文を次のように解釈しています。
「極めて稀に発生する大地震(震度6強〜7程度を想定)に対して、建物が損傷することは許容するが、人命が損なわれるような倒壊・崩壊は防ぐこと」
つまり、人命の保護が最優先されているのです。これは構造設計の最も根幹をなす、絶対に譲れない大原則です。
「財産の保護」に関する解釈の違和感
しかし、ここで条文をもう一度よく見てみましょう。「生命、健康」と並んで「財産の保護」という言葉があります。多くのクライアントにとって、建築物は最も価値のある「財産」の一つです。
にもかかわらず、現行の基準法の一般的な解釈では、「大地震時に建物(=財産)が損傷し、継続して使用できなくなる(場合によっては建て替えが必要になる)ことは許容される」というのが通説です。
もちろん、人命が第一であることに異論はありません。 しかし、「財産は守られなくてもよい」とまでは言いきれないはずです。この点に、設計者は自覚的であるべきです。クライアントが「地震後も住み続けたい」「事業をすぐに再開したい」と願うのは当然のことであり、その想いは「財産の保護」という言葉に集約されています。
建築基準法をクリアすることは、あくまで「最低限の義務」であり、「クライアントの財産を可能な限り守る」という視点を持つことが、設計者としての付加価値につながります。
耐震設計の2段階アプローチ
では、具体的に建築基準法はどのように耐震性能を規定しているのでしょうか。現在の耐震設計は、大きく分けて2つのレベルの地震動を想定する「2段階設計」が基本です。
- 一次設計(許容応力度計算):
- 想定する地震:建物の耐用年数中に数度は遭遇する可能性のある中程度の地震(震度5強程度)。
- 目標性能:建物の構造部材(柱や梁など)に生じる力が、材料が弾性範囲に収まる「許容応力」を超えないように設計します。これにより、建物はほとんど損傷せず、地震後も問題なく使用し続けられる状態を目指します。また、過度な揺れによる不快感や内外装の軽微な損傷を防ぐため、層間変形角を1/200以内(一部1/120)に抑えるという明確な変形制限があります。
- 二次設計(保有水平耐力計算など):
- 想定する地震:極めて稀にしか発生しない大規模な地震(震度6弱〜7程度)。
- 目標性能:このレベルの地震に対しては、建物の損傷を許容します。構造部材が塑性化(元に戻らない変形)することで地震エネルギーを吸収し、建物全体としての倒壊・崩壊を防ぎます。この計算(ルート3と呼ばれることが多い)では、建物がどれだけの水平力に耐えられるか(保有水平耐力)を確認し、それが大地震時に必要とされる耐力(必要保有水平耐力)を上回ることを検証します。一次設計のような明確な変形制限値はありませんが、著しい変形による局部的な崩壊を防ぐ検討も求められます。
重要なのは、二次設計では「損傷の程度」に関する具体的な数値基準が、一次設計ほど明確には定められていないという点です。法律が求めているのは、あくまで「最終的に倒壊しないこと」。この点が、「建築基準法=最低限の基準」と言われる所以の一つです。
参考:建築構造設計の世界を知る~自然の未知をどう掴むか
参考:耐震性は耐力と硬さ(剛性)のバランスで考える
② 複雑な法体系を読み解く力
建築基準法と関連規準の階層構造
構造計算を行う上で参照すべき基準は、建築基準法だけではありません。その下には、より具体的な内容を定めた「施行令」や「告示」が存在します。さらに、これらを補完するものとして、日本建築学会などが発行する各種規準書や指針があります。
この法体系は、以下のような階層構造になっています。
- 法律(建築基準法): 国会で制定される大枠のルール。
- 政令(建築基準法施行令): 法律の委任に基づき、内閣が制定する命令。
- 告示: 国土交通大臣などが定める、さらに技術的で詳細な基準。
- 各種技術基準・指針(学会規準など): 法的拘束力はないが、専門家集団による標準的な設計法。
この構造を頭の中でイメージできているかどうかで、設計課題に直面した際の対応力が大きく変わってきます。特に、法律の「ただし書き」や例外規定は、設計の自由度を高める一方で、その適用条件を誤ると大きなトラブルにつながる可能性があります。どの階層の基準に基づく話なのかを正確に理解し、都合の良い部分だけを「つまみ食い」するように解釈することは厳に慎むべきです。
計算ソフトへの「依存」に潜む罠
現代の構造設計は、計算ソフトなしには成り立ちません。ソフトは、入力された情報に基づき、膨大な計算を瞬時に行い、基準に適合しているかどうかをチェックしてくれます。
適合していない箇所が見つかると、「ワーニングメッセージ」や「エラーメッセージ」として結果を出力しますが、「なぜダメなのか」「どの基準のどの部分に抵触しているのか」という法的な位置づけまで親切に教えてはくれません。
ここで法体系の理解が浅いと、以下のような誤った判断をしてしまう可能性があります。
- 過剰設計の発生: 法的拘束力のない学会指針レベルのワーニングメッセージに対して、本来は不要な部材のサイズアップや補強を行ってしまう。
- 本質的な問題の見落とし: 複数のワーニングメッセージが出ている場合、その根本原因(例えば、建物の剛性バランスが悪いなど)に気づかず、目先のメッセージを消すためだけの対症療法的な修正に終始してしまう。
計算ソフトはあくまで強力な「ツール」です。その計算結果を鵜呑みにするのではなく、出力されたメッセージがどの階層の基準に基づくものなのかを自ら調べ、判断する能力が設計者には不可欠です。
参考:直感が置き去りにならない一貫計算との付き合い方
参考:計算プログラムに使われない付き合い方
「慣れ」が引き起こす落とし穴
経験を積むと、様々な判断が迅速にできるようになります。しかし、その「慣れ」が、時として大きなトラブルに直結することがあります。
- 都合の良い解釈: 過去の経験から「この場合はこう解釈して良いだろう」と自己判断し、基準の条文を正確に確認することを怠る。
- 知識のアップデート不足: 法改正や新しい知見の追加に気づかず、古い知識のまま設計を続けてしまう。
常に 少しでも疑問に思ったら必ず原文に立ち返って確認する習慣が、設計者としての信頼を守る上で極めて重要です。
参考:構造設計者(エンジニア)は未知課題に謙虚に向き合うことが不可欠
③ 「クライテリアを創る」ことこそが真の構造設計
法適合はゴールではなく、スタートライン
建築基準法が定めているのは、国民の生命を守るための「最低限の性能」です。これを満たすことは、設計者としての義務であり、仕事のゴールではありません。
多くのクライアントは、構造に関する専門知識を持っていません。そのため、設計者に対して明確な性能(クライテリア)を提示することは稀です。
クライアントとの対話の中から、言葉にならない想いや潜在的なニーズを汲み取り、それを具体的な「建物の性能」という形・数値に翻訳して提案すること。これこそが、単なる「計算業務」ではない、「設計」という創造的な仕事の始まりです。
求められる性能は千差万別です。ただ「基準法を満足しています」と答えるだけでなく、「この建物は、これだけの性能を持たせることで、お客様の〇〇という想いを実現できます」と具体的に提案することが、信頼を勝ち取るための第一歩です。
単に『大丈夫です』と断言するだけでは、真の信頼は得られません。『何に対して』『どのような理由で』大丈夫なのか。そして、その『大丈夫』とは具体的に『何を指すのか』(例えば、倒壊しないことか、修繕なく住み続けられることか)。具体的な性能目標や残存するリスクを正直に伝えるコミュニケーションこそが、クライアントとの強固な信頼関係を築くのです。
性能を提案し、選ばれる設計者になる
性能を提案する際には、メリットだけでなく、コストという現実的な側面も正直に伝える必要があります。耐震性能を上げることで、どの程度のコストアップが見込まれるのか。初期投資と長期的なメリット(BCP対策、資産価値維持)を天秤にかけてどう判断すべきか。
これらは設計者が一方的に決めるものではなく、クライアントが自ら判断するための客観的な材料を、分かりやすく提供することも重要な役割です。
言われた通りの計算をするだけのオペレーターになるか、クライアントの未来を共に創るパートナーとなるか。その分水嶺は、「基準法を超えるクライテリアを自ら創り出し、提案できるか」という点にあるのです。
参考:建築基準法改正の裏側/「性能設計」を阻むものと、設計者が向き合うべき課題
参考:自分で決めることのススメ~成果は「自分で決める」意識で9割決まる
まとめ
本記事では、建築基準法が定める耐震性能が「最低限」であること、そして構造設計者の真の役割は、その先の性能をクライアントと共に創り上げていくことにある、という点を解説してきました。
- 建築基準法の耐震性とは、「大地震時に倒壊はしないが、建物は損傷し、継続使用は困難になる可能性のあるレベル」であり、「生命の保護」を最優先した最低限の基準である。
- 法律、政令、告示、各種指針といった複雑な法体系を正しく理解し、計算ソフトの結果を鵜呑みにせず、自らの責任で判断を下す必要がある。
- 法適合はスタートライン。クライアントとの対話を通じて潜在的なニーズを汲み取り、具体的な性能(クライテリア)として提案することが、付加価値の高い設計につながる。
自然災害の多い日本において、建物の安全性を確保することは、私たち構造設計者に課せられた極めて重い社会的責任です。法律を守ることは当然の義務ですが、それに安住していては、クライアントの期待を超えることはできませんし、技術者としての成長もありません。
参考:計算の「わかったつもり」から脱却/成長の壁を壊す”言語化”の思考法
コメント